健康を創る食生活とは?
児玉陽子の正しい「食養」のすすめ
第3回 「食養」の歴史を辿る一“元祖”石塚左玄の提唱
児玉陽子 (食生活アドバイザー)
株式会社エナジックインターナショナル 広報誌 『E-FRENDS』より転載
児玉陽子 略歴:
1936年3月、台湾・台北市生まれ。 55年に皮膚病、59年に結核を発症。東邦大学病院の日野厚博士の指導により「日野式食養」を実践し快癒。 以来、食養研究を始め、69年から公益財団法人・河野臨牀医学研究所(東京都品川区)で食養指導を開始。 78年には日野博士と共に日本初の「食養内科」を松井病院(東京都大田区)に設けて食養指導を実施。95年、同病院顧問に。 現在はフリーランスの立場で、食生活についての指導・啓蒙活動をおこなっている。 主著に『臨床栄養と食事改善指導』『アレルギーにならないための離乳食』(いずれも緑書房)など。
この連載のタイトルにある「食」とは、食物によって「病気を治す・健康を改善する」といった意味の語ですが、いったい誰によっていつ頃から使われ始めたのでしょうか。
もともとフランスのルイ・パスツール(1822-1895)以降の近代西洋医学の流れを追ってみると、免疫学の祖であるロシアのイリヤ・メチニコフ(1845-1916)が長寿のための乳酸発酵菌(ヨーグルト)の飲用を勧めた以外、「食物で病気を治す」発想は希薄でした。西洋ではむしろ、医学とは別物としての「栄養学」が発達していきました。
一方、古代ギリシャのヒポクラテスやイスラム医学、インドのアーユルベーダ、中国の古典医学などの伝統医学では、空気・水・風土などと並んで「食事」が意識されていました。日本でも、前号で紹介した貝原益軒や横井也有のような人たちを見るとわかるとおり、中国の医学・本草学(薬学)の影響を受けて、「食物」の大切さを認識し著述で説いていました。
このような素地があったためか、伝統医学・医術を踏まえた「臨床栄養学」としての「食養」が、日本で独自に発達していったのです。それが大きく花開いたのは明治期のことでした。
■「人類穀食動物論」とは?
その担い手が、明治時代の医師である石塚左玄(1851-1909)でした。彼こそが、「食物で病気を治す」意味の食養という言葉を使い始め、さらにその概念を広く普及させるのに大きく貢献した人なのです。
福井藩の漢方医の家に生まれた石塚は、東京大学南校で医師と薬剤師の資格を得て陸軍の軍医薬剤監として活躍し、1896年に陸軍少将で退官。その年、大著『化学的食養長寿論」を刊行し、食養概念の体系化に寄与しました。また、1907年には「食養会」を設立し、食後概念の実践的普及活動にも熱心に取り組みました。
以下では、石塚の碑立した食養学の 中から、良く知られた概念を紹介してみましょう。
まずは「人類食動物論」です。人間の歯は、穀物を噛むための臼歯が20本、薬類をみきるための門歯は8本、そして肉を噛む犬歯は4本なので、人間は主に穀物を食する動物であるという理論。穀物の中でも石塚は精白していない玄米を推奨していますので、「玄米魚菜食」が理想的な食事ということができそうです。
続いては、「身土不二」という考え方です。もともと「因果応報」に近い意味の仏教用語でしたが、転用して食養運動の中で使われるようになりました。
その土地の環境に適している食物を、それが産出する季節に食べることで、心身もまた環境に調和するという理論ですいまなら「地産地消」が近い概念でしょうか。次号でも、引き続き石塚の「食養概念」を紹介してみます。
Global E-Friends 2019.3