あなたのためのヘルスセミナー Vol.6

健康を創る食生活とは?

児玉陽子の正しい「食養」のすすめ

第6回 わが師 日野厚(ひの あつし)医学博士の生涯と食養論

その1

児玉陽子 (食生活アドバイザー)

株式会社エナジックインターナショナル 広報誌 『E-FRENDS』より転載

児玉陽子 略歴:

1936年3月、台湾・台北市生まれ。 55年に皮膚病、59年に結核を発症。東邦大学病院の日野厚博士の指導により「日野式食養」を実践し快癒。 以来、食養研究を始め、69年から公益財団法人・河野臨牀医学研究所(東京都品川区)で食養指導を開始。 78年には日野博士と共に日本初の「食養内科」を松井病院(東京都大田区)に設けて食養指導を実施。95年、同病院顧問に。 現在はフリーランスの立場で、食生活についての指導・啓蒙活動をおこなっている。 主著に『臨床栄養と食事改善指導』『アレルギーにならないための離乳食』(いずれも緑書房)など。

わたしの師である日野厚医学博士は、1919年に京都市で生まれました。父親は同志社大学の宗教学の教授で、家もキリスト教に帰依し洋風の生活を取り入れていたといいます。ところが日野は生まれながらの虚弱体質で、とくに中学生(旧制京都一中)のころからは悪性で慢性の下痢に悩まされ続けました。

実はこのことが、日野が「食養」や「断食」といった(当時の西洋医学の常識からみれば)“異端の療法”にめざめ、医者としてその研究と実践活動をライフワークにしていくことの端緒になったといえます。わたしの食養論の原点を形成している「日野式食養法」を理解していただくためにも、ここで当時の状況に触れておきたいと思います。

日野は1989年に亡くなる前、テープレコーダーに自分の来し方を吹き込んでいました。それは後に「我が回想の記」(以下、回想記と略)として遺族の手によって冊子にまとめられました。

それによると、中学4年生時に下痢が猛烈に悪化し、「寝たきりになってしまった。以降、締めて四年半ぐらい休学する事になってしまった」(回想記)というほどでした。さらに「約三年間というものは、毎日三度三度、もう普通の下痢止めでは効かなくなってしまった」(同)。慢性で、かつ悪性の過敏性腸症候群だったようです。こうして日野は、中学を長期病休することになったのでした。

■桜澤式で慢性下痢を克服

日野は療養中にいろいろな治療法を人に勧められましたが、中でも「玄米食」には得心し、その関連で(本連載の3回と4回で紹介した)石塚左玄の食養論を実行するようになりました。回想記によると、「自分で献立を作って三度三度カロリー計算してオーダーを出していた」というほど、自己流ながら「玄米魚菜食」を相当徹底して実践しました。西洋医学の治療法で回復しなかったことから、そういう療法により力が入ったのでしょう。

日野はその後、石塚左玄の食養理論を受けついだ桜澤如一(さくらざわゆきかず)の提唱する(本連載の4回と5回で説明した) 食養論に傾倒します。わざわざ東京まで出向き、石塚が初代会長を務め、一時期、桜澤も会長だった「食養会」に通って会員がおこなう療法を学びました。「桜澤先生が講演に行く、座談会に行くというと、僕はことごとく付き歩いた」(回想記) というほど、熱心に取り組みました。

さらに日野は大阪にあった「断食道場」に入寮して断食も体験しています。そこでは、まるで「禅で悟りを開いた時のような境地」を得たといいます。こうして次第に回復してきた日野は、ようやく中学に復学することができました。

やがて卒業時期を迎え、日野は医師をめざすことにしました。それまでの病気をめぐる彼の強烈な体験が、必然的にその道を選択させたといえるかもしれません。日野は1940年に九州高等医学専門学校(現久留米大)に入学。44年に卒業すると医師の道を歩みはじめました。

Global E-Friends 2019.7

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。