健康を創る食生活とは?
児玉陽子の正しい「食養」のすすめ
第7回 わが師 日野厚(ひのあつし)医学博士の生涯と食養論
その2
児玉陽子 (食生活アドバイザー)
株式会社エナジックインターナショナル
広報誌 『E-FRENDS』より転載
児玉陽子 略歴:
1936年3月、台湾・台北市生まれ。 55年に皮膚病、59年に結核を発症。東邦大学病院の日野厚博士の指導により「日野式食養」を実践し快癒。 以来、食養研究を始め、69年から公益財団法人・河野臨牀医学研究所(東京都品川区)で食養指導を開始。 78年には日野博士と共に日本初の「食養内科」を松井病院(東京都大田区)に設けて食養指導を実施。95年、同病院顧問に。 現在はフリーランスの立場で、食生活についての指導・啓蒙活動をおこなっている。 主著に『臨床栄養と食事改善指導』『アレルギーにならないための離乳食』(いずれも緑書房)など。
1944年に旧制九州高等医学専門学校(現久留米大)を戦争のため繰り上げ卒業すると、日野は疎開を兼ねて同年に設立されたばかりの旧制山梨県立医学専門学校(1947年に廃校)で医師としての研修をするようになりました。それも間もなく45年6月に徴兵されて千葉県内の基地に駐屯することに。しかしわずか2カ月後の8月に日本が敗戦し招集解除になると山梨へ戻り、県内の診療所勤務を経て、甲府市の山梨県立医学研究所で働くことになったのです。
日野の「我が回想の記」(以下、回想記と略)によりますと、彼は臨床医よりも医学研究を志していて県の関連部署へ働きかけた結果、研究所入りを果たしたといいます。
こうして日野は待望の研究生活を始めることができました。以降、「僕の性格としていい加減にはできないのだ。朝早くから夜中まで来る日も来る日も研究をつづけた」(回想記)のでした。
日野がもっとも注力したのは、風土病として知られている日本住血虫症の研究でした。これは日本住血虫が体内に侵入すると肝機能などが侵され、重篤化すれば死に至る場合もある恐ろしい病気で、しかも最大の“有病地”が甲府盆地でしたから、足元の風土病を克服せんと懸命に尽力したのでしょう。
■全体医学の確立をめざす
研究生活を送っている日野に、東邦医科大学から声がかかりました。日本住血虫症の研究のために実施していた血液検査の緻密な方法が評価されたのです。実際、日野は東邦医大に移ると、血小板減少症に関する研究で成果を上げました。回想記で、「血液学会で発表した報告は、かなりの反響を呼んだ。僕が出したデータについて、国内からも国外からもだいぶ問い合わせが来た」というほどでした。
こうした努力の結果、日野は1956年に医学博士号を取得しましたが、10代のころと同様に虚弱で、腎臓や肝臓などの疾患に罹ってしまう有り様でした。そのため彼は「食生活」にひどく敏感になりました。
かつて過敏性腸症候群を治療するため、(6月号で紹介した) マクロビオティックの創始者・桜澤如一に師事したことからもわかるように、その関心事は必然的に「自然食」といった方向にむかいました。
しかしそれは、桜澤式べったりではありませんでした。詳細は省きますが、要はその食養法が余りに厳格で、かえって健康を害するケースが目についたため、むしろ批判的になっていました。
日野は民間の食養法に利点があることは承知していましたが、一方、それがマイナスに働くこともあると認識しました。そこで、可能な限り実証を土台として、厳正に批判検討し、現代の栄養学と医学、さらに民間の食養法や療法などを総合しようと考えました。
その上で、健康のために真に役立つ新しい総合的な全体医学・栄養学の確立に全力で取り組むことを、ライフ・ワークとする決意をしたのです。
Global E-Friends 2019.8