あなたのためのヘルスセミナー Vol.8

健康を創る食生活とは?

児玉陽子の正しい「食養」のすすめ

第8回 わが師 日野厚(ひのあつし)医学博士の生涯と食養論

その3

児玉陽子 (食生活アドバイザー)

株式会社エナジックインターナショナル 広報誌 『E-FRENDS』より転載

児玉陽子 略歴:

1936年3月、台湾・台北市生まれ。 55年に皮膚病、59年に結核を発症。東邦大学病院の日野厚博士の指導により「日野式食養」を実践し快癒。 以来、食養研究を始め、69年から公益財団法人・河野臨牀医学研究所(東京都品川区)で食養指導を開始。 78年には日野博士と共に日本初の「食養内科」を松井病院(東京都大田区)に設けて食養指導を実施。95年、同病院顧問に。 現在はフリーランスの立場で、食生活についての指導・啓蒙活動をおこなっている。 主著に『臨床栄養と食事改善指導』『アレルギーにならないための離乳食』(いずれも緑書房)など。

わたしが日野と運命的な出会いをしたのは、1959年のことでした。重い肺結核にかかったわたしが、東邦医大付属病院に勤務する日野の診察を受けたことが発端です。以来、日野が亡くなるまで30年も医療の世界で共に歩むようになるとは、当時は想像さえしていませんでした。

入院したわたしは、日野の許可を得て、玄米の自炊を始めました。一口に玄米食と言っても、“流派”はいろいろです。わたしはいくつかの方法を試しましたが、これという療法は見つかりませんでした。この間、日野はわたしの「自己流食養法」を見守っていました。頭から否定したり批判したりということはしない人でした。

日野自身も、大学病院で「食養の科学化」に向け、日夜、研究に励んでいました。そして日本で初めて大学病院で玄米の給食をする、という画期的な取り組みを始めたのでした。具体的には、主食を玄米とし、砂糖は使わず薄味で、タンパク質は小魚や白身魚、そして豆腐などの大豆食品から摂取し、野菜(とくに緑黄色野菜)を多く摂る――という献立でした。

これはいまでもお勧めしたいほど、バランスの取れた良い食事内容でした。わたし自身もこうした食事療法のおかげで、肺結核を治すことができたのです。

こんな体験を経て、日野の食養に対する情熱や人柄に感銘を受けたわたしは、退院後まもなく、日野の研究の手伝いをすることになりました。これが、わたし自身もその後、長きにわたり「食養」をテーマとした研究と実践を続ける端緒になったわけです。

■「東と西の統合医学」を構想

その後、日野は東邦医大から別な場所に「舞台」を移し、1963年からは、日野らの働きによって新設された小田原女子短大・栄養科学研究所で、臨床栄養学について実証的研究をつづけました。同じ年に(財)愛生会・厚生荘療養所にも栄養研の分室ができて、わたしもそこで働くようになりました。

さらに69年6月。食養研究にとって画期的な動きがありました。日野が、河野臨床医学研究所付属・北品川総合病院の第3 内科部長兼特殊栄養部長に就任したのです。これにより日本で初めて総合病院で本格的な食養研究とその実践が始まったのでした。

当時、日野がライフワークとしていた研究は、「全体医学・栄養学」の確立でした。このことについて、日野は初めての一般向け著作『自然と生命の医学 食と病の対決』(光和堂/1965年初版)のプロローグで、こう書いています。

「(民間の食事療法などを指して)これに科学性という脚光を浴びせ、出来る限り実証を土台として、その在り方を厳正に客観的に批判検討し価値評価をし、且つより全きものへ高めて行くと共に、現代栄養学・現代医学・民間食事法・民間療法総てを統合して、真に人間の幸福達成に大きく役立つ新しい綜合医学~栄養学の展開」が緊急の課題であると。

このような気宇壮大な構想のもと、日野は以後も熱心に実証的研究に励んでいくのでした。わたしもまた、研究員として日野に伴走しつづけたのです。

Global E-Friends 2019.9

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