池江流子育て『どんな人から生まれても』

産経新聞2022年1月19日水曜日に掲載されたコラムを文字起こししたものです。

その9

立派に育てるという決意

誕生の瞬間、きょうだいにも

3番目の子の璃花子は、自宅のお風呂で産みました。 助産院で多くのことを学ばせていただいたので、自信がついていました。自宅に来てもらえる近くの助産師さんを探して、出産はもちろん、検診も行っていただきました。

医療を介入させない自由な産み方を「アクティブバース」 といいます。日本ではあまり耳にすることがないと思いますが、欧米がルーツで、妊婦さんにも赤ちゃんにも負担をかけない考え方です。

長女と長男は水中出産ができる産院を選びましたが、そこでは必ずしも水に入らなければいけないわけではありません。 産院のどこでも好きなところで産んでいいと言われました。 私はせっかくなので、産気づいてからは3畳ほどの大きさのある出産用のお風呂に 入りました。水温はそれほど高くなく、陣痛がきていないときはとても快適な空間でした。

赤ちゃんが生まれると、すぐには水からあげず、母親とへその緒がつながったままでゆらゆらと水の中を漂わせました。まだ羊水の中にいるときと変わらず「胎盤呼吸」なのでそれができるのです。水からあげると赤ちゃんは羊水を吐き出し、肺呼吸をするために大きな声で泣きます。そして呼吸が落ち着くと赤ちゃんはもう泣きません。赤ちゃんは生まれてから泣いているというイメージがあったのですが、それは母親から離れた不安や環境への恐怖からだとわかりました。しっかり肺呼吸ができるようになると、少しいきんで胎盤を出し、家族でへその緒を切りました。私は今までおなかの中で育てた達成感と、無事に生まれてくれた安心感でいっぱいになりました。そしてこれからこの子を立派に育てるという決意をしました。ところで、妊娠をする前の自分の食に対する考えはひどいものでした。 しかし子供を持ちたいと思ったときから改善し、さらに2人の子を産んだ助産院の先生 には食のこともたくさん教えていただきました。

玄米菜食にし、有機栽培した野菜や食品添加物を取らない昔ながらの日本食を心掛けました。 出産後、助産院で食べた食事のおいしかったこと! 今の私の食の原点です。母乳育児の大切さも教えていただきました。妊婦さんは出産の準備で哺乳瓶を何本か用意しますが、全く使いませんでした。生まれてから赤ちゃんと和室で添い寝をし、2時間ごとに母乳をあげるのです。初めは親の方も赤ちゃんの方も慣れていなくてうまくいきま せんが、初乳を自分で絞ってスプーンで飲ませたり、赤ちゃんをいろいろな抱き方をして乳首を吸わせたり・・・・。 母親の乳腺を刺激するような飲ませ方をすると次第にうまくいきました。まったく痛くない母乳マッサージもしていただきました。

母乳のことで悩むお母さんはたくさんいると思います。 私の場合は助産院の先生が指導してくださったおかげもあり、3人の子供を1歳半まで母乳で育てることができました。 璃花子が生まれてきた様子は、7歳の長女と3歳の長男にも見せることができました。 それは家族の素晴らしい時間になりました。


誕生したばかりの池江璃花子選手。
当時、7 歳の長女と3歳の長男も新しい家族を喜んだ

池江美由紀(いけえ・みゆき)

東京都出身。3人(長女、長男、次女)の子育てをしながら、1995年から幼児教室を経営。次女が小学校に上がる前に離婚し、ひとり親で3人を育てる。東京経営短期大学こども教育学科特別講師。

初の著書『あきらめ ない「強い心」をもつために』(アスコム)刊行。

池江璃花子(いけえ・りかこ)

2000年7月4日生まれ、21歳。

3歳で水泳を始めた。2016年リオデジャネイロ五輪は100mバタフライ5位。100、200m自由形と50、100mバタフライの日本記録保持者。 19年2月に白血病と診断された。日大、ルネサンス所属。

池江流子育て『どんな人から生まれても』

産経新聞2022年1月12日水曜日に掲載されたコラムを文字起こししたものです。

その8

心でつながる母と胎児

産む力と、生まれようとする力

結婚してしばらくすると、子供を持ちたいという気持ちになり、たくさんの幼児教育の本や出産に関する本を読みました。 そして妊娠すると、ますます熱心に出産の勉強をしました。

私は胎教の本や多くの情報から、胎児の心はお母さんとつながっていて、言葉はわからなくてもその思いが伝わるということを知りました。ですから、いつも心穏やかに過ごし、おなかの子供に向かって話しかけるようにしました。

ある本には、こんなことが書かれていました。「おなかの赤ちゃんに、お母さんが楽なように、そしてあなたも楽なように、するっぽんっ!と生まれてきてね」「お父さんとお母さんの お仕事のない日に生まれてきてね」「3000gぐらいで生まれてきてね」と語りかければそのように生まれてくると。ですので、私は毎日おなかの赤ちゃんに向かってそう語りかけました。

そのかいがあってか、3人の子供たちはいつも親の仕事の支障のない日に生まれてきました。 長男は3800gありましたが、長女と次女の璃花子は3000gと少しで生まれてきました。

璃花子を妊娠して8カ月ぐらいのころには、仕事と上の2人の子の育児で忙しく、璃花子は逆子になったり戻ったりとおなかの中でグルグル動いていました。逆子は、お母さんの意識が赤ちゃんにあまり向いていないと起こりやすいものです。

璃花子は自宅出産でしたので、健診も自宅でした。助産師さんが健診したときもやはり頭が上でしたので、手技で赤ちゃんの頭を下に戻し、さらしで動かないように固定してしまいました。しばらくそのままで、お風呂もさらしを巻いたまま入るように言って帰られたのですが、私は苦しくてさっさとさらしを取ってしまいました。

そしておなかの中にいる 璃花子に向かって「あなたも苦しいし、ママも苦しいの。そこでグルグル回ってもいいけど、生まれるときは頭からね。助産師さんが来たときも頭を下にしておいてね」と言ってやると、それから健診の時はぴたっと頭を下にしていました。

このことからも、赤ちゃんはお母さんと心と心でつながっており、お母さんの思いや言葉を理解している。のだとさらに確信しました。

私は自分の産む力と、赤ちゃんの生まれようとする力を大切にする母子の負担の少ない自然出産を望んでいました。それは何よりも、お母さんと強い絆でつながっている赤ちゃんの心を大切にする産み方だと思うからです。

助産院で産む水中出産は、医師がおらず、助産師さんに介助してもらう自然な産み方です。もちろん何かの際は病院と提携していますが、そうならないために健康に留意し、妊娠中のトラブルが起こらないように細心の注意を払いました。病院や先生を頼って産ませてもらうのではなく、わが子を自分の力で産むという強い思いが湧きました。

もちろん、出産は何が起こるかわからない命がけのものです。どのような産み方であっても、赤ちゃんと心の中で強い絆を結んでいることが大切だと思います。

私はおかげさまで何事もなく、長女と長男は助産院で出産。そして3番目の璃花子は、2人を自然に産んだ経験から、自宅のお風呂で出産に臨むことができました。


誕生から約10日後、出産に立ち会った助産師さんに抱かれる池江璃花子選手。
3きょうだいはおそろいの生地で作られた洋服に身を包んでいる

池江美由紀(いけえ・みゆき)

東京都出身。3人(長女、長男、次女)の子育てをしながら、1995年から幼児教室を経営。次女が小学校に上がる前に離婚し、ひとり親で3人を育てる。東京経営短期大学こども教育学科特別講師。

初の著書『あきらめ ない「強い心」をもつために』(アスコム)刊行。

池江璃花子(いけえ・りかこ)

2000年7月4日生まれ、21歳。

3歳で水泳を始めた。2016年リオデジャネイロ五輪は100mバタフライ5位。100、200m自由形と50、100mバタフライの日本記録保持者。 19年2月に白血病と診断された。日大、ルネサンス所属。

池江流子育て『どんな人から生まれても』

産経新聞2021年12月22日水曜日に掲載されたコラムを文字起こししたものです。

その7

今をよりよく生きよう

コロナ禍の孤独

2019年に新型コロナウイルス感染症が発生し、私たちの世界は一変しました。20年4、5月は私の幼児教室もお休みになりましたし、璃花子は学校の授業の全てがオンラインとなり、今でも大学にあまり通えていません。やっと病気が治って自由にできるかなと思いましたが、大学生もさまざまな我慢を強いられています。

児童や学生の一年一年はとても大切な成長期です。いろいろな行事や育めるはずだった人間関係の機会も奪われています。本当に不憫でしかたがありません。

感染予防に気を付けて、昨年6月から幼児教室を再開していますが、この1年は入会の方がとても少ないのが現状です。例年0,1歳という赤ちゃんたちの入会が多いのですがコロナが怖くてあまり外に出られないからだと思っています。

乳幼児期は、能力形成に関わるとても大事な時期です。人間の脳は、刺激によって脳細胞がネットワークを作っていきます。豊かな環境や刺激があると、生まれたばかりの赤ちゃんは丸ごと吸収し、質の良い土台となる脳回路を作ります。親御さんの豊かな言葉がけや、たくさんの人たちとのふれあいや刺激、外に出ていろんなものを見たり聞いたり、五感を通して受ける環境が、その後の能力に大きく関わる大切な時期なのです。

それがステイホームで外に出られない、おじいちゃんおばあちゃんも含めたたくさんの人に会えない・・・。人間は群れで育つというのに、子育てするお母さん方はどんなに孤独で苦しんでいるのだろうと心配でなりません。私たち大人はこのような生活が多少続いても 人生の少しの間と我慢できますが、小さい子供たちは将来取り返しのつかない発達の遅れを引き起こす可能性もあることを知っていただきたいと思います。

しかし、嘆いていても仕方がありません。現状の中でいかによりよく生きるか、過去も今も未来もそれしかありません。

今年を振り返ると、璃花子はコロナで1年延期になったことで、今夏の東京五輪に出場することができました。2021年7月3日。五輪開会式をテレビで見て、ちょうど1年前、たった一人で同じ国立競技場に立ち、ランタンを提げていた璃花子の姿を思い出さずにはいられませんでした。

聖火の入ったランタンを揚げる池江璃花子選手
2020年7月23日午後8時1分、東京都新宿区の国立競技場

20年7月の五輪1年前イベントは、アスリートとして出場することはないだろうと思っていた自国開催の五輪に、別の形で携わることができたイベントでもあり、この上なく名誉でした。 国立競技場に立ったとき、あの苦しく孤独な入院生活と同じようにたった一人だけれども、大勢の人に見守られ、すべてのアスリートの代表としてその思いを伝えることができ、そして元気になった今を思うと感慨深い思いでした。

璃花子が復帰してから、東京五輪をはじめほとんどの試合が無観客のため、目の前で泳ぐ姿をまだ見ていません。一人一人の努力で早く元の世の中になり、子供たちは成長の場を取り戻し、私はまた水泳場で多くの方々と璃花子を応援したいと願っています。

東京五輪4000mメドレーリレー決勝。
第3泳者を務め8位入賞に貢献した

池江美由紀(いけえ・みゆき)

東京都出身。3人(長女、長男、次女)の子育てをしながら、1995年から幼児教室を経営。次女が小学校に上がる前に離婚し、ひとり親で3人を育てる。東京経営短期大学こども教育学科特別講師。

初の著書『あきらめ ない「強い心」をもつために』(アスコム)刊行。

池江璃花子(いけえ・りかこ)

2000年7月4日生まれ、21歳。

3歳で水泳を始めた。2016年リオデジャネイロ五輪は100mバタフライ5位。100、200m自由形と50、100mバタフライの日本記録保持者。 19年2月に白血病と診断された。日大、ルネサンス所属。

池江流子育て『どんな人から生まれても』

産経新聞2021年12月15日水曜日に掲載されたコラムを文字起こししたものです。

その6

皆から応援される存在に

人生を切り開くあいさつ

「あいさつ」「プラスの 言葉」「時間を守る」

これは、私の子育てでも軸にしてきた大切なことです。 この3つが身についた3人のわが子たちが、さまざまな面で好ましい結果になっているからでもあります。今回は「あいさつ」についてお話ししたいと思います。

東京五輪期間中のこと。日本各地の警察官が連日、大会会場や選手村を警備してくださっていました。璃花子はそんな警官の方々に「いつも警備ありがとうございます」とお礼を言って いたようです。 後にある警察本部から「世界トップレベルの選手が競技中にもかかわらず、会場警備の警察官に心温まる励ましの言葉を頂き、本当にありがとうございました。猛暑の中でも旺盛な士気のもとで活動することができました」というお礼のお手紙を頂戴しました。

あいさつは当たり前のことですが、誰でもできることではありません。私の教室では、まだ言葉を話さない小さなうちからあいさつを教えます。 まずお母さんがあいさつをして、子供に手本を見せることが大切です。ちょこんと頭を下げることから始まり、意思をもってその動作をしているか、「おは…」だけでもよいのです。

もう少し大きな子であいさつをしようとしない子供には、お母さんだけ中に入っていただきます。子供はあいさつするまで中に入ることができないので、必ずするようになります。

周りの人は、その子供がいい子であるかの第一印象を、ほとんどがあいさつのできるかどうかで決めるしかありません。その子の人間性がいくら高くても、もじもじしていては第一印象が低く、もったいないことです。

トップアスリートのような心身ともに鍛錬されている人たちは皆あいさつができるかというと、どうもそうではありません。それは親のしつけの中で習慣化されていなかったことだけではなく、指導者の責任も考えなければいけないと思います。子供の学校関係や水泳の関係の親御さんもさまざまで、中にはあいさつのできない親御さんもいらっしゃいます。

私は仕事柄、積極的にごあいさつさせていただきます。先生方はもちろんですが、子供の先輩の親御さんにも失礼のないように気を付けていました。親の行いで、子供の足を引っ張るわけにはいきません。わが子がみなさんから応援されるかどうかに関わる大切なことだからです。

あいさつは、小さい頃であれば簡単に身につけることができます。習慣ができさえすればどんなときでも誰にでも自然に言葉が出ますし、あいさつが子供の人生を明るい方向に切り開いていくように思います。

2018年のパンパシフィック選手権。大会期 間中にもかかわらず、たくさんの荷物を抱えな がら、
子供たちにサインする池江璃花子選手

池江美由紀(いけえ・みゆき)

東京都出身。3人(長女、長男、次女)の子育てをしながら、1995年から幼児教室を経営。次女が小学校に上がる前に離婚し、ひとり親で3人を育てる。東京経営短期大学こども教育学科特別講師。

初の著書『あきらめ ない「強い心」をもつために』(アスコム)刊行。

池江璃花子(いけえ・りかこ)

2000年7月4日生まれ、21歳。

3歳で水泳を始めた。2016年リオデジャネイロ五輪は100mバタフライ5位。100、200m自由形と50、100mバタフライの日本記録保持者。 19年2月に白血病と診断された。日大、ルネサンス所属。

池江流子育て『どんな人から生まれても』

産経新聞2021年11月10日より毎週水曜日掲載されたコラムを文字起こししたものです。

その5

親は世界一優しく、怖い人

子供のため、心を鬼に主導権

わが家では、親の私が主導権を持っていました。3人の子育ては、人が思うほど大変ではなかったのは、このおかげです。

親子の関係で主導権はどちらがお持ちでしょうか。 子供は何の観念も持たずに生まれてきます。見ること聞くこと体験すること、すべてが蓄積して人格が作られます。親は皆、子供が賢く、やる気にあふれ、我慢強く粘り強く、逆境にも屈しない、なおかつ他者への思いやりや、人望がある人間に育ってほしいと願うはずです。しかし、それは親が教えなければ決して身につくものではありません。

子供のやりたいことや自由を優先し、親子間の主導権を子供に明け渡すような子育てでは、子供は親の話を受け入れ、親から学ぼうとはしなくなります。子供の機嫌が悪くてぐずったり、泣いて拒否したりしたからといって、親は教えるべきことを諦めてはいけません。子供がそうしているのは、親から主導権を取ろうとしているのです。 何とか自分の要求をかなえよう、自分のペースにしようと親を試しているのです。

それに負けて子供の言いなりになったり、親自身が言ったことを曲げたりしてしまっては、自分が主導権を取れるということを学ばせてしまいます。その積み重ねが近い来子供に多くのことを学ばせる機会を奪ってしまうことにつながります。

友人家族との旅行での写真、右が池江璃花子。右利きなのに左手で箸を持って器用に食べている=2003年夏

食事は落ち着いて座ってするものです。わが家では、子供たちが歩き回ればご飯を片付けましたし、次の食事までは絶対に食べさせませんでした。主導権を持っていない親は、叱ったり小言を言ったりしながらも子供のペースに合わせてしまいます。 遊びながら食べたり、途中で歩き回ったり、叱られればひっくり返ったり。 どうしてこうなのだろうと途方に暮れる親御さんもいらっしゃいますが、それは主導権を子供に握られているからです。

子供は生まれてからすべての環境を受け入れます。 親がいけないと教えたことはしませんし、こうすることが正しいのだと教えれば必ず理解します。もともと頑固で言うことを聞かない子など一人もいないのです。

ご家庭でも、お父さん (お母さん) の言うことは聞くけど、他方の親の言うことは聞かないというお子さんがいるのではないかと思います。子供は、自分がコントロールできる、自分が主導権を持てる親をちゃんとわかっているのです。

主導権を親が持つということは、子育てで最も大切なことです。親は世界で一番優しく、また世界で一番怖い人にならなければいけません。良いことは良い、いけないことはいけないと、子供のために心を鬼にして教えなければなりません。そのような役目を果たすのは親しかいないのです。

池江美由紀(いけえ・みゆき)

東京都出身。3人(長女、長男、次女)の子育てをしながら、1995年から幼児教室を経営。次女が小学校に上がる前に離婚し、ひとり親で3人を育てる。東京経営短期大学こども教育学科特別講師。

初の著書『あきらめ ない「強い心」をもつために』(アスコム)刊行。

池江璃花子(いけえ・りかこ)

2000年7月4日生まれ、21歳。

3歳で水泳を始めた。2016年リオデジャネイロ五輪は100mバタフライ5位。100、200m自由形と50、100mバタフライの日本記録保持者。 19年2月に白血病と診断された。日大、ルネサンス所属。

池江流子育て『どんな人から生まれても』

産経新聞2021年11月10日より毎週水曜日掲載されたコラムを文字起こししたものです。

その4

「人望」生きる力をもらって

相手を敬い愛される人に

子供に身につけてほしい力に「人望」があります。人生の荒波を乗り越えていくには「強さ」が大切ですが、そこに共感してくれる人、支えてくれる人、応援してくれる人が必要です。

私は子供の人間関係を小さな頃からとても注意深く見守ってきました。学校で成績が良くなくても、水泳の記録が振るわなくても、子供に「友達がいるのか」 「友達と仲良くできているのか」、そのことの方がよほど重要だったのです。

私はその道で一番になる ことより、人間力が高くなることを優先してきました。その中でも周りの人に愛される人になる、応援される人になるということを大事にしてきました。そのために、「人を敬う」ことの大切さを子供たちに教えました。

わが家はひとり親ですから、序列の1番は親の私、長女が2番、長男が3番、次女の璃花子は最後です。子供を優先するとか、きょうだいの小さい方を優先するとか、そういうことはしません。きょうだい間で友達のように名前を呼び合わせず、「お姉ちゃん」「お兄ちゃん」という呼び方をさせました。

長子を優先して愛情深く接することで、その愛は長子から下のきょうだいに注がれます。小さい子供であれば、下の子が生まれると、上の子が赤ちゃん返りをするということがありますが、そのようなこともわが家では全くありませんでした。 家族でも年上の人に敬意を払うことや、人にかわいがられるような人望を持つことを小さい頃から教えてきたからだと思います。

璃花子が闘病中に行われた2019年の世界選手権。100mバタフライの表彰式後には、トルコで合同合宿をしたこの種目の世界記録保持者、サラ・ショーストロム選手(スウェーデン)らが「Ikee ♡ NEVER GIVE UP Rikako ♡」と手のひらに書いて応援メッ セージを送ってくれました。

東京五輪では、19年1月に体調不良でオーストラリアから緊急帰国(後に白血病が判明)したときに師事していたマイケル・ボール コーチや、エマ・マキオン選手(東京五輪では7個のメダルを獲得)とも再会。 璃花子の復帰を心から喜んでくださいました。

こんなにもたくさんの方が、璃花子の病からの復活を待っていてくれたのだと思うと、ありがたい気持ちで胸がいっぱいになりました。

つらい闘病中、全国から応援のお手紙やさまざまなお見舞いの品が届きました。 千羽鶴の鶴は、全部で 4万5千羽も頂きました。璃花子が人に愛されるという人望があることを闘病を通しても知りました。支えてくれる人、応援してくれる人がたくさんいたからこそ、璃花子は生きる力をもらい、闘病を乗り越えることができたのだと思います。

地元、東京都江戸川区のスポーツセンターに飾られた折り鶴。全国から15万5千羽も届いた
東京五輪の競泳競技会場で再開した池江璃花子選手とサラ・ショーストロム選手

池江美由紀(いけえ・みゆき)

東京都出身。3人(長女、長男、次女)の子育てをしながら、1995年から幼児教室を経営。次女が小学校に上がる前に離婚し、ひとり親で3人を育てる。東京経営短期大学こども教育学科特別講師。

初の著書『あきらめ ない「強い心」をもつために』(アスコム)刊行。

池江璃花子(いけえ・りかこ)

2000年7月4日生まれ、21歳。

3歳で水泳を始めた。2016年リオデジャネイロ五輪は100mバタフライ5位。100、200m自由形と50、100mバタフライの日本記録保持者。 19年2月に白血病と診断された。日大、ルネサンス所属。

池江流子育て『どんな人から生まれても』

産経新聞2021年11月10日より毎週水曜日掲載されたコラムを文字起こししたものです。

その3

奇跡を起こす「自分を信じる力」

心と体はつながっている

自分を信じる力は、ときに奇跡を起こします。2021年4月、東京五輪代表選考会を兼ねた日本選手権。璃花子は逆転の泳ぎで、東京五輪への道を切り開きました。

19年2月。退院した璃花子は、入院したときとは別人のようにやせ細り、痛々しいとしか言いようのないほど力がなくなっていました。毎日山のような薬を飲み、点滴がなくなった分、大量の水分をとることがうまくいかず、脱水状態になり、危うく病院に逆戻りしそうなこともありました。

それでも関係者の方のサポートや全国のファンの方の励ましで回復に向かい、いよいよプールに入ることができたのは、退院から3カ月目の20年3月のことでした。 璃花子のやせ細った水着姿を人に見られるのはとてもつらかったのですが、本人はさして気にする 様子でもなく、「あぁ、気持ちがいい」と水の感触を楽しんでいました。

それから1年1カ月後。日本選手権に出られることになったとき「やっと本来の場所に戻ってこられた」 と私は心から喜びました。

最初の種目、100mバタフライでの優勝は、おそらく誰も予想できなかったのではないかと思います。そしてたくさんの方が璃花子の勝因を解説してくださいました。しかしそれはどれも間違いではありませんが、正解でもないと思います。

璃花子は本番に強い。しかも舞台が大きければ大きいほどとてつもない力を発揮します。璃花子があの大舞台で奇跡の泳ぎができたのは、私は「自分を信じる力」だと思っています。

人間の脳はいつも意識して使う顕在能力と無意識で使う潜在能力があります。氷山で言えば見えている一部が顕在能力、その下の海の中に沈んでいる膨大な氷が潜在能力です。

私たちにはまだまだ潜在能力が眠っています。ですから私は、いつも子供たちに「あなたならできる。あなたにはまだ使っていない素晴らしい力がある」と暗示の言葉を伝えていました。 結果が駄目なときはもちろん、良いときもそれに満足せず上を目指せるよう に「あなたにはまだまだ素晴らしい力があるよ」と常に前向きに「できる」というイメージを持たせました。

日本選手権100mバタフライで優勝
東京五輪代表入りを果たした池江璃花子選手
2021年4月

長年、自分には素晴らしい能力があるといわれ続けた璃花子だからこそ、ここ一番の場面で潜在能力を引き出すことができたのではないでしょうか。

100Mバタフライの準決勝までとは違う泳ぎが決勝でできたのは、自分なら絶対にやり遂げることができる、誰も自分の前を泳がせないという自分を信じる力があったからだと感じています。 心と体はつながっています。たとえ体は元に戻っていなくても、ほかの選手より圧倒的にスタミナが足りなくても、自分を信じる力が奇跡の泳ぎをさせたのではないかと思います。

池江美由紀(いけえ・みゆき)

東京都出身。3人(長女、長男、次女)の子育てをしながら、1995年から幼児教室を経営。次女が小学校に上がる前に離婚し、ひとり親で3人を育てる。東京経営短期大学こども教育学科特別講師。

初の著書『あきらめ ない「強い心」をもつために』(アスコム)刊行。

池江璃花子(いけえ・りかこ)

2000年7月4日生まれ、21歳。

3歳で水泳を始めた。2016年リオデジャネイロ五輪は100mバタフライ5位。100、200m自由形と50、100mバタフライの日本記録保持者。 19年2月に白血病と診断された。日大、ルネサンス所属。

池江流子育て『どんな人から生まれても』

産経新聞2021年11月10日より毎週水曜日掲載されたコラムを文字起こししたものです。

その2

前向く璃花子の優しさに触れ

二重の苦しみ 押しつぶされそうに

親なら誰しも、子供が苦しむのを見るくらいなら自分が代わりになってあげたいと思うはずです。そして親なら誰しも、子供が夢をかなえることを全力で応援し、幸せになってほしいと願うはずです。

わが家は父親のいない家庭でしたが、母親である私は3人の子供に精いっぱいの愛情を傾け、将来子供が自分の夢をかなえられるように懸命に育ててきました。子供たちはみな親の言うことをよく聞き、きょうだいの仲もよく、それぞれの道を順調に歩んでいました。

そんな私たち家族の世界が一瞬にして変わってしまったのは、2019年2月、次女の璃花子が「白血病」と診断されてからです。18年夏のパンパシフィック選手権では、100mバタフライを56秒08で優勝。その年の世界ランキング1位のタイムでした。その後のアジア大会では6冠を達成しました。世界のトップが見えた直後のことでした。

母親である私は苦しむ璃花子を見るというつらい日々が始まりました。そして目の前まで来ていた璃花子の夢が、ボロボロに打ち砕かれてしまうのを黙ってみているしかありませんでした。死ぬかもしれない病になってしまった絶望と、トップアスリートとして活躍していたキャリアを失った二重の苦しみに、私も押しつぶされそうになりました。

そんな混乱のなかでも、ただ立ち止まっていてはいけない、嘆き悲しんでいても事態は決してよくならないと自覚していました。 璃花子も「今は病気を治すしかない」とすぐに前を向いてくれました。髪の毛がすべて抜けてしまっても、体調がいいときはお見舞いの人たちと帽子もかぶらないで会い、前と変わらない笑顔で接していました。ただ泣き言を漏らさない代わり、自分の本心も明かさず、口数はとても少なくなっていました。

 19年春ごろ。病気を発症する前からサポートしてくれていたトレーナーさんが、璃花子の体をマッサージするために病室にきてくれました。 施術を終えると璃花子が「ママの分もしてもらえませんか」と突然言いました。 当時は肩こりがひどかったのですが、苦しむ璃花子の前でそんなことは言えませんでした。ただ、そんな私の様子を、璃花子は無言で見ていたのです。 強さの中にある璃花子の親を思う優しさに触れました。

退院してから約4カ月後、美由紀さんの誕生日を祝う璃花子選手
=2020年4月25日

私は仕事をしながらそんな璃花子をサポートする中で、心の奥底では璃花子が病気を治すだけではなく、いつか元の世界に戻ってほしい、そしてまた以前のように自らの夢を追いかけるようになってほしいと願っていました。子供が健康であることはもちろん、子供の夢を応援したいと思うのが親でもあるからです。

池江美由紀(いけえ・みゆき)

東京都出身。3人(長女、長男、次女)の子育てをしながら、1995年から幼児教室を経営。次女が小学校に上がる前に離婚し、ひとり親で3人を育てる。東京経営短期大学こども教育学科特別講師。

初の著書『あきらめ ない「強い心」をもつために』(アスコム)刊行。

池江璃花子(いけえ・りかこ)

2000年7月4日生まれ、21歳。

3歳で水泳を始めた。2016年リオデジャネイロ五輪は100mバタフライ5位。100、200m自由形と50、100mバタフライの日本記録保持者。 19年2月に白血病と診断された。日大、ルネサンス所属。

池江流子育て『どんな人から生まれても』

産経新聞2021年11月10日より毎週水曜日掲載されたコラムを文字起こししたものです。

その1

「病気、ママでなくてよかった」

璃花子がどん底で見せた強さ

白血病を乗り越え、この夏の東京五輪に出場した競泳日本代表、池江璃花子(21)=ルネサンス=の母で、幼児教室の代表も務める池江美由紀さん。赤ちゃんはみんな天才的な能力を持って生まれ、それを引き出してあげるのは親の他ないー。そんな思いで子育てに奮闘してきた美由紀さんのコラムを毎週水曜日に掲載します。

「強さ」は、子供に最も身につけさせたい力の一つです。子供の人生には楽しいことばかりではなく、さまざまな困難が待ち受けています。その一つ一つに立ち向かい、乗り越える強い力を親は子供に身につけさせなければなりません。

 3人の子供のうち、私に似ている面が多いのが璃花子です。お互い信念が強く、失敗を恐れずポジティブですが、この点が子育てのときは苦労しました。 姉と兄がすんなり受け止めることを、璃花子はできない。それでも親が折れてはいけないという私の信念が、自分を曲げない璃花子とよくぶつかりました。

子供の機嫌が悪いと面倒くさい。泣きわめかれたりすると世間に恥ずかしい。そういった理由で親は正しい基準を変えてはいけません。 璃花子はもともと「強さ」を持って生まれてきま したが、それを引き出し、単なる自己中心的な強さではなく、生きるための正しい強さに育てていくのは、親の務めです。

子供たちに「強さ」を身につけさせるため、多くの挑戦、それも少し難度の高いことにチャレンジさせてきました。例えば璃花子は、通っているスイミングスクールで開催されている水泳大会に、5歳のときから出場させました。それは結果を求めるのではなく、親がかばったり守ったりすることができないところでさまざまな経験をすることが子供を成長させ、強くすると思っていたからです。成功体験は子供に自信をつけ、失敗してもその悔しさ が子供を強くします。

子供の歩いていく道はやさしい道ばかりではありません。歩きやすいように親が砂利や小枝をどけてやったり、先回りして楽な方を教えてやったりばかりはできません。自分で決めたことを決して諦めず、転んだら自ら立ち上がり、真っ暗で孤独なトンネルに入っても出口を探し続け、粘り強く歩き続けられるようにしなければなりません。

中学生のころの池江璃花子選手と美由紀さん

璃花子は18歳で白血病を患い、それまでの競技人生で培ってきたものを失いました。入院したときは早期発見ということもあり元気でしたが、薬で全身を痛めつけて病をたたくので、みるみる弱っていきました。そんな中でもある日、「病気になったのがママでなくてよかった」と私に言いました。「なんで私が・・・・.」と思って当然の璃花子の口からその言葉が出たことは、本当に驚きました。私が璃花子の立場なら、年齢だったなら、とても言えなかったと思います。

どんなにつらい困難にも決して腐らず、決して折れず、治る明日を信じて、懸命に生きる姿勢を娘に見ました。それは今までの私の子育てで長年教え、育ててきた「強さ」だったのですが、このような絶体絶命の場で見ることができるとは思いもしませんでした。

池江美由紀(いけえ・みゆき)

東京都出身。3人(長女、長男、次女)の子育てをしながら、1995年から幼児教室を経営。次女が小学校に上がる前に離婚し、ひとり親で3人を育てる。東京経営短期大学こども教育学科特別講師。

初の著書『あきらめ ない「強い心」をもつために』(アスコム)刊行。

池江璃花子(いけえ・りかこ)

2000年7月4日生まれ、21歳。

3歳で水泳を始めた。2016年リオデジャネイロ五輪は100mバタフライ5位。100、200m自由形と50、100mバタフライの日本記録保持者。 19年2月に白血病と診断された。日大、ルネサンス所属。

ウコンの歴史

沖縄やんばる産ウコン

ウッチンパワーでガンジュー・チョーミー(健康長命)

沖縄の気候風土が育む

パワフル・ウコンを徹底解剖

一説によると、健康食品(サプリメント)の約4割が、何らかの形でウコンに関連しているといわれています。人気抜群のウコンですが、日本で流通しているウコンのほとんどは外国産です。

しかし、わたしたちはもっと足元を見直してみましょう。そう、亜熱帯の沖縄こそウコンが自生し、古来さまざまな民間療法に取り入れられてきた地域なのです。

先人の知恵を脈々と受け継いだウチナンチュ(沖縄の人びと)は、生活の中でウコンを活用しつづけてきました。世界的に知られる沖縄の「ガンジュー(健康で)チョーミ(長命)」の理由の1つに、ウコンをあげていいのかもしれません。

このウコンを最も多く栽培しているのが、北部1帯を指し、ヤンバルクイナやノグチゲラ といった希少動物の生息地として知られるやんばる地域です。

ウコンの特長と効果効能を科学的に検証する実験・研究も数多く積み上げられてき ました。その成果は、「伝承」を「事実」に変え、信頼感をいっそう高めることでしょう。

沖縄ウコン・ミニヒストリー

【明治維新はウコンのおかげ?】

ウコンが沖縄に持ち込まれたのは琉球王朝時代のことで、5世紀ごろまでには交易を通じて中国からウコンが伝播したとされています。その後、琉球ではウコンがさかんに栽培されるようになりました。評判が高まり、大阪などへ「輸出」されるようにもなったといいます。

7世紀には王府が専売制をしいて利益を独占しました。販売先はもっぱら薩摩藩で、薩摩を通じて上方(とくに堺の)商人へ売りさばかれていました。しかし19世紀に入ると、琉球を支配した薩摩藩がウコンの専売制を しき、薬用および染料用として高値で売りさばいて莫大な利益を上げました。

幕末、薩摩藩は強大な武力を蓄え、戊辰戦争で長州藩とともに徳川幕府軍を打ち破って明治維新を実現しましたが、その軍費調達 にウコン専売が一役買ったといえるでしょう。

【ウコンの未来は明るい】

明治以降、ウコンは次第に忘れ去られていき、再び脚光を浴びたのは1950年代に入ってからのことでした。ウコンに関するある論文が注目され、それをきっかけにウコンのすばらしさが再認識されていったのです。

もちろん、この間も民間療法としていろいろな用途に使われていましたが、次第に沖縄の枠を超えて本土へと評判が広がり、8 年代に入ると、折からの健康食品ブームにも乗って、ウコンの消費量が飛躍的に増大しました。

この需要増に応えたのはもっぱら輸入品でしたが、沖縄でも栽培量は右肩上がりに増え、県の統計を見ると、93年の収穫量16トンが5年後の98年には何と111トンで、約7倍にも増大しました(重量は生もの×0.1の乾物換算)。

 ブームは一段落しましたが、健康食品やお茶のジャンルで、ウコンは欠かすことのできない産品となっています。医学的・科学的研究 が進むにつれ、この傾向はますます強まることでしょう。ウコンの未来はたいへん明るいといえます。

飲むならウコン! ウチナンチュはウッチンが大好き!

沖縄では「ウコンのある生活」が当たり前です。飲み屋に入ると、袋に小分けしたウコンの錠剤が売られ、客は“一杯”の前に購入して飲みます。まさに「飲むならウコン!」なのです。あるいは甕に貯蔵した古酒(クース)に生のウコンを漬けておく店もあります。

また、庭先にウコンが植えられているのもしばしば目にする光景です。ウコンが成長すると根茎を掘り出し、薄く切って乾燥させ、さまざまな用途に使うのです。

使用法はいろいろです。調理で香辛料代わりにしたり、ミソ汁にちょっと入れてみたり。または粉末状にして湯をそそぎお茶にしてみたり、当然、あわもりや泡盛を飲る前やその後に飲んでみたり・・・・・

ウコンは日常生活に溶け込んでいるのです。